歴史と伝統を誇る日本一の移動式野外劇

八雲神社と祭礼

御神紋 烏山市街地の中央に鎮座する八雲神社は、元からこの場所にあったものではありませんでした。那須資胤が牛頭天王に祈願するにあたり、大桶村から勧請したと言われています。場所も今のお仮殿の置かれるところで、名称も「牛頭天王社」と呼ばれていました。
 牛頭天王とは元はインドの祇園精舎ぎおんしょうじゃの守護神といわれており、素戔嗚尊すさのおのみことと同一神とされ、また薬師如来の化身であると言われています。疫病よけの神様として日本全国の各地で祭られており、京都の祇園祭で有名な八坂神社もこの神様を祀っています。古くは山あげ祭もお天王さん、天王祭などと呼ばれ、天王建もこれに由来します。明治3年(1870年)、名称を八雲神社、祭神を素戔嗚尊に、そして大正3年(1914年)に社有地拡張のため現在の場所に遷座されました。
 当初は信仰も祭典もありませんでしたが、その後神を敬うという思想が流れ始め、町の中央に位置し、薬師さまと同じように病気の神様と言う所から信仰が盛り上がってきました。永禄6年(1560年)には勧請祭礼が初めて行われたようですが、詳しい記録は残っていません。それから約80年後の正保元年(1644年)に、鍜冶町、元町・田町(元田町)、荒町(金井町)、赤坂町(泉町)、仲町の5町が初めて仲町十文字で祭礼を行ったと伝えられています。
 寛文6年(1666年)、堀美作守親昌ほりみまさかのかみちかまさは神殿を新築奉納し、人々は烏山特産の和紙を用いて「山」を作り、踊り場を開設して奉納し、元文3年あたりから山あげの特徴と言える「所作狂言(歌舞伎)」が披露され、踊りが最高潮に達すると化生(神通力を有する者)が現れ観衆を沸かせました。これが「山」に降臨された八雲大神と神を奉迎した氏子等崇敬者が輪番に奉納された「山あげ」の芝居を鑑賞し共に喜びあう姿であり、本来の姿と言えます。
 神社の祭は夏だけではありません。通常における神社の三例祭とは、祈年祭きねんさい(春祭)、例大祭(夏祭)、新嘗祭にいなめさい(秋祭)を言い、1年間の五穀豊穣を祈願するお祭りのことです。
 祈年祭はその年の五穀豊穣などを祈願し、例大祭では収穫前に天災除けを、新嘗祭では春の祈願を聞き入れてくださった大神様への感謝と喜びを伝えます。烏山の八雲神社はこの例大祭が特化して「山あげ祭」として大々的に行われているのです。その他にも追儺祭ついなさい(節分)等の行事があり、これらはすべて当番町の若衆達が取り仕切ります。

八雲神社と祭礼