大宝律令が作られた時代、当時の中心地である平城京(現在の奈良市)を除く全国を、山陽道、山陰道、西海道、東海道、東山道(※1)、北陸道、南海道の七つに区分しました。ここで言う「道」とは道路ではなく、現在の北海道の「道」と同じ行政単位のことです。都から、これら七つの行政単位を通過する駅路がそれぞれ設けられ、そのうち東山道を通過する駅路跡が東山道跡です。(以降、文章中では東山道跡は駅路のことになります)
※1 東山道は、近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国(※2)、陸奥国、出羽国の8国からなる。
※2 下野国は、足利、梁田、寒川、安蘇、都賀、河内、芳賀、塩屋、那須の9郡に分かれ駅(現在の鉄道等の駅でなく、馬を備えた宿泊施設のこと)が7駅(※3)置かれていた。
※3 足利郡の足利、都賀郡の三鴨、田部、河内群の衣川、芳賀郡の新田、那須郡の盤上、黒川。
駅路は、律令国家時代に都と地方を結ぶ駅制による緊急通信制度によって、駅使(公の使者)が通ることを規定された道路であり、とことん直線にこだわった道路で、多少の谷であればそれを埋め、低い丘は道路の通る部分を掘り下げ切り通しとするなどしています。
那須烏山市とさくら市との市境には地元で源義家の伝説とともに今は「将軍道(=東山道)」と呼ばれている道幅2mの小道があります。
- 栃木県教育委員会による調査 [PDF形式/94.83KB]
- 那須烏山市教育委員会による調査 [PDF形式/94.27KB]
まとめ
下野国内の東山道駅路は7世紀後半ごろに平地では路面幅が12mを基準とする道路が造られ、その後9世紀代に駅路は大規模な改修が行われ、平地での路面幅は6mとなりました。しかし、初期の駅路と延喜式以降に造られた駅路は同一ルート上を通るのか、また今回は触れなかった伝路のルートは官衙遺跡と関連するのか等まだまだ解明すべき課題はたくさん残されています。